は じ め に

1950年(昭和25年)、6月25日に始まった朝鮮戦争は今年で68年になりますが、今年、平成30年の6月12日にアメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が戦後初めて歴史的な米・朝首脳会談を行いました。

朝鮮半島が統一に向かいそうな気配ですが、北朝鮮の背後にいる中国は現状維持を望んでいますし、アメリカのトランプ大統領は南の韓国は諦めたのではないか、つまり見捨てるのではないかと見ている識者もいます。(西岡勉著「ゆすり、たかりの国家」、イ・ドヒョン著「韓国は消滅へ道にある」)

そしてその韓国ですが、南北統一に前のめりになっている文在寅大統領の思惑どおり高麗民主連邦共和国の名のもとに南北が段階的に統一されることになれば、日本の最終防衛線が38度線からずっと南の対馬にまで下がって、朝鮮半島に核を持った反日の軍事国家が誕生するかもしれません。そうなれば、由々しき事態になります。

いよいよ、我々日本人の覚悟が問われる時代が到来しそうです。いや応なく「危機の時代」が再びやって来たと言えるでしょう。

欧米世界を見渡せば、アメリカファーストのトランプ大統領の誕生とイギリスのEU離脱はグローバリズムの衰退を暗示し、またフランスの「国民戦線」やドイツの「ドイツのための選択肢」の伸長に見られる様にナショナリズムの台頭が顕著になってきました。

一方、東アジアでは、グローバリズム経済の終焉と共に景気の下降が続き、打開できないまま経済の低迷を続けている中・韓二国のうち韓国は国の最低賃金大幅引上げで、さらに企業体力が弱まり、中小企業及び自営業者の社員リストラが激しくなっております。失業者は100万人を超す年が去年、今年と続いています。また法人税増税政策に企業が反発し、財閥など大企業を中心に工場を海外に移転させようとする企業が増え、景気は少しずつ悪くなっており、物価上昇に賃上げが追い付かない状態になっており、主として、野菜、石油など物価高騰が国民経済を悩ましています。


1997年のアジア通貨危機とIMF管理の悪夢再来が懸念されています。

中国は、アメリカとの貿易戦争で景気は更に悪化し、当局は隠していますが、失業者は増え続け、大卒者の就職難、地方での暴動の他、最近は習近平個人の名前が党の機関紙に載る回数が減ってきております。また、チベット人やウイグル人弾圧など習近平に対する国民や世界からの批判も強くなっています。


安倍晋三首相が求めているのは、デフレ脱却を含む国民経済の安定であり、保護主義に反対する自由主義経済の推進です。

そして、友好国アメリカのトランプ大統領は北朝鮮の背後にいる中国に対して強い危機感を抱いています。トランプ大統領は中国こそが世界制覇の野望をもっており、北朝鮮や韓国を都合よく利用していると見抜いています。そして、米・中関税問題で中国を弱体化させようとしています。


この激動する国際政治のなか、我々日本人は安倍首相をリーダーとして持った事、アメリカはトランプ大統領をトップに頂いていることは、自由主義陣営にとって大きな幸運と言えるでしょう。

このような危機的状況の中で、日本が採るべき方策は何か。国際危機の中で日本が生き残るための思想は何か、と考えてみたとき、私に思い出されたのは、北 一輝でありました。


我が国は、1868年の明治維新から今年で150年に当たります。そして、1945年(昭和20年)の敗戦から73年が過ぎました。

今、尖閣諸島や竹島問題、慰安婦や南京事件などの歴史問題、憲法改正問題などを上げるまでもなく、現在の日本は幕末維新以来最大の国難を迎えようとしています。


幕末維新以来多くの思想家が我が国には出ましたが、日本独自の歴史・伝統・文化を踏まえて、それを土台として借り物ではない自らの思想を構築したという点で、北 一輝は傑出した人物です。

以下、日露戦争以後の日本の歴史を背景に、北の人となりを少しご紹介します。

北 一輝は明治16年に佐渡で生まれました。実家は酒造業を営んでおりました。父親の慶太郎は町長を務めており、少年の頃、父親や親戚から自由民権運動のそしてまた、日露戦争前の時代思潮から、幸徳秋水や堺利彦らの社会主義思想影響も受けています。

日露戦争後の1906年に23歳で「国体論及び純正社会主義」を自費出版しますが、一週間で発禁処分を受けます。同年末、宮崎滔天から革命評論社に招かれ、同人になり、また中国同盟会にも加入しています。

そして、1911年10月10日辛亥革命が起るや友人宋教仁と共に革命運動に参加します。その時の生々しい体験をもとにして書いたのが「支那革命外史」です。この本を1915年に執筆し、要路の人47人に贈ります。

四年後、1919年、5・4運動の騒乱の中、上海の路上を埋め尽くす群衆の叫び声を眼下に聞きながら「そうだ日本へ帰ろう。そして、魂のどん底から日本を変えよう」と決意し、生卵、酒、水だけで一か月の断食をしながら書いたのが「国家改造案原理大綱(日本改造法案大綱)」です。

この原稿を同年8月に迎えに来た大川周明に渡します。北はこの年の12月に帰国し、翌年1920年1月から猶存社を中心として活動し、「日本改造法案大綱」のガリ版刷を配布するなど国家改造運動に関わる事になります。

しかし、当時の日本を取り巻く内外の状況は危機的で、大戦後、1920年3月の戦後恐慌、金融恐慌、震災恐慌、昭和恐慌、そして更に農業恐慌と日本経済は未曾有の大混乱に見舞われます。

日本の国情を無視した君主制・天皇制廃止を目指す左翼・共産主義陣営はコミンテルンが決定した27年テーゼ、32年テーゼを運動方針に掲げますが、国民の共感を得ることなく党勢を失います。そして、一方一部政治家の腐敗と政党政治の無能さ、特権的財閥への富の偏り、日本外交の危うさ(軟弱外交)、農村部の窮迫などを憂えた青年将校を中心に国家改造の機運が起こってきます。神兵隊事件、救国埼玉青年挺身隊事件、血盟団事件、3月事件、10月事件、5・15事件、満州事変と日本政治は現状変革を目指す民間右翼、一部軍人が暗殺を含む激しいテロ事件を引き起こし、また、軍内閣樹立運動が展開されます。



そして、ついに、部隊を動かす 軍部クーデターが噂される様になります。

また、軍部内の派閥争いも激しくなり、士官学校事件、粛軍パンフ事件、相沢事件というように、軍部内の統制派と皇道派の争いは留まることなくエスカレートしていきます。

そして、統制派が皇道派の動きを止めるため、第一師団満州派遣構想を打ち出します。

この構想を知った皇道派青年将校達は、焦燥の中で1936年(昭和11年)満州派遣前に、要人暗殺を含むいわゆる昭和維新に立ち上がります。

この維新運動は3日で鎮圧されますが、北はこのクーデター事件、所謂2・26事件の民間人首謀者とみなされ、弁護人なしの軍法会議、一審のみで死刑判決が下され、1937年8月19日銃殺刑に処せられてしまいます。

波瀾万丈のこのような生涯をおくった北 一輝は「危機の思想家」でした。これから国難とも言える未曾有の危機的状況を迎えるであろう日本。その日本の取るべき進路を模索する時、北の思想から国難を打開するヒントが得られるのではないか。そしてまた、北の思想が中国や韓国から仕掛けられている「歴史戦・情報戦」に打つ勝ための強力な思想になり得るのではないか。

この思いから私は北 一輝研究を続けていきたいと思うものです。皆様から叱咤・勉励を頂きながら続けられればこれに優る喜びはありません。今後とも、宜しくお願い申し上げます。

平成30年8月23日

大島 司