稲盛和夫に学ぶ

稲盛和夫さんが新刊「心。――人生を意のままにする力」を出版されました。

稲盛和夫さんは言わずと知れた、京セラの創業会長、KDDIの創業会長、日本航空の再建の会長であり、日本が世界に誇る優れた経営者であると思います。


稲盛さんはその著書のプロローグで、

人生の全ては自分のこころが映し出す

善なる動機をもてば、成功へと導かれる

燃える闘魂もまた、「善なる動機」から生まれる

最も深い「心」は宇宙へと通じる

人生の目的は心を磨き、他に尽くすこと

という5点を述べています。


すなわち、心がすべてを決めている。

心に何を描くか、どんな思いを持ち、どんな姿勢で生きるか、によって人生は決まっていく。目の前に起こってくるあらゆる出来事はすべて自分の心が呼び寄せたものである、と喝破します。


だから純粋で美しい心をもって生きる人には、それにふさわしい豊かですばらしい人生が拓けてくる。一方、自分だけがよければいいという狭量な思いや、人を蹴落としてでも自分だけが利を得ようとする邪な心をもつ人は、一時的に成功を収めることはあっても、やがては没落する人生を送ることになる。

いくら努力をして苦労を重ねても、いっこうに人生がよくならないと嘆く人がいたら、まずは自らの内側に目を向けて、正しい心をもっているかどうかを問い直さなければならない。

そして、そのもっとも崇高で美しい心は、他者を思いやるやさしい心、ときに自らを犠牲にしても他のために尽くそうと願う心、すなわち「利他」である。

利他を動機として始めた行為は、めざましい成果を生み出してくれるのである。


何が何でも成し遂げるという思い、どんな苦境にも負けずに進もうとする意志も、その根幹に美しい「利他の思い」「善なる心」があってこそ事を貫徹することができる。


人の心の奥にはというものがある。それはもっとも純粋で、もっとも美しい心の領域です。

私たちの「知性」「感性」「本能」の奥には「魂」があり、さらにその奥深くの核心には「真我」がある。この真我の働きが「利他の心」であり「やさしく美しい思い」である。

そしてその真我とは、万物を万物たらしめている「宇宙の心」とまったく同じものである。

つまり、人の心のもっとも深いところにある「真我」にまで到達すると、万物の根源ともいえる宇宙の心と同じところに行き着く。

したがって、そこから発した「利他の心」は現実を変える力を有し、おのずとラッキーな出来事を呼び込み、成功へと導かれる。


人生の目的とは、富でも名誉でも満足でもない。心を高めること、魂を磨くことである。

心を高めること、そして「利他の心」で生きること――この二つは一体かつ不可分で、他のために尽くすことによってこそ心は研磨され、また美しい心をもつからこそ、世のため人のために働くことができる。


以上、稲盛和夫さんが新刊「心。――人生を意のままにする力」で教えてくれている真理です。


2019年8月14日

古鳥史康


人生の全ては自分のこころが映し出す

これまで歩んできた八十余年の人生を振り返るとき、そして半世紀を超える経営者としての歩みを思い返すとき、いま多くに人たちに伝え、残していきたいのは、おおむね一つのことしかありません。それは、「心がすべてを決めている」ということです。

人生で起こってくるあらゆる出来事は、自らの心が引き寄せたものです。それらはまるで映写機がスクリーンに映像を映し出すように、心が描いたものを忠実に再現しています。

それはこの世を動かしている絶対法則であり、あらゆることに例外なく働く真理なのです。

したがって、心に何を描くのか。どんな思いを持ち、どんな姿勢で生きるのか。それこそが、人生を決めるもっとも大切なファクターとなる。これは机上の精神論でもなければ、単なる人生訓でもありません。心が現実をつくり、動かしていくのです。

そんな「心」のありようについて最初に気づくきっかけとなったのは、私がまだ小学生のころ。肺結核の初期症状である肺浸潤にかかり、闘病生活を余儀なくされたことでした。幼い私にとってそれは、暗くて深い死の淵をのぞいたような強烈な体験でした。

鹿児島にあった私の実家は、叔父二人、叔母一人が結核で亡くなるという、まるで結核に魅入られたような家でしたが、私は感染を恐れるあまり、当時、結核にかかった叔父が寝込んでいる離れの前を通りすぎるときには、鼻をつまんで走り抜けていました。

私の父はといえば、肉親を世話するのは自分しかいないと覚悟を決めていたのでしょう。感染することなどまったく恐れず、とても献身的に看病をしていました。私の兄もまた、そんなにたやすくうつるものではないだろうと、まったく気にもとめていませんでした。

そんな父や兄は感染することなく、私だけが病魔に襲われてしまった。ひたひたと迫りくる死の恐怖におののきながら、私は日々鬱々とした気持ちで病床に伏せるほかありませんでした。

そんな私を見かねたのか、当時隣に住んでいたおばさんが一冊の本を貸してくれました。そこにはおよそ、次のようなことが書いてありました。

「いかなる災難もそれを引き寄せる心があるからこそ起こってくる。自分の心が呼ばないものは、何ひとつ近づいてくることはない」

ああ、たしかにそうだ。と私は思いました。病気を恐れず懸命に看病していた父は感染せず、また病気など気にせず平然と生活していた兄もまた罹患しなかった。病を恐れ、忌み嫌い、避けようとしていた私だけが、病気を呼び寄せてしまったのです。

すべては「心」がつくり出している――このとき得た教訓は、その後の私の人生に大きくかかわる大切な気づきとなりましたが、当時はまだ年端もいかない子どものこと。その意味するところを十分理解するまでにはいたらず、それによって人生が大きく変わることもありませんでした。

その後、少年期から社会に出るまでの私の人生は、挫折と苦悩、失意の連続でした。中学受験には二度も失敗し、大学受験をしても希望の学校に行くことはかなわず、続く就職試験も思うようにならない。なぜ自分ばかりがこううまくいかないのだ、何をやってもダメに違いないと失望し、うちひしがれ、暗い気持ちで日々を送るばかりでした。

そんな人生の流れが大きく変わったのは、大学を卒業し、京都にある碍子メーカーに就職してからのことです。

不況による就職難の中、大学の先生からの紹介をいただいて、やっとのことで入社した会社でしたが、フタを開けてみればすでに経営は行き詰っていて、ほぼ銀行の管理下にあるというボロ会社でした。

同期に入社した仲間は一人、二人と辞めていき、とうとう私一人になってしまいました。

逃げ場のなくなった私は、それならば、と心を入れ替えて仕事と向き合うことにしました。

どんな劣悪な環境であっても、できるかぎりの仕事をやってやろうと腹を据え、研究室になかば泊まり込むほどに研究開発に没頭したのです。

やがて成果が上がりはじめ、おのずと周囲からの評価も上がると、ますますやりがいを感じて研究に邁進する。するとおもしろいように、さらによい成果が出る。そんな好循環が生まれ、やがて私は、当時世界的にみても先駆的な独自のファインセラミックス材料の合成に成功することができたのです。

けっして能力が向上したわけでも、すばらしい環境が与えられたわけでもない。ただ考え方を改め、心のありようを変えただけで、自分をとりまく状況が一変した。

人生とは心が紡ぎ出す者であり、目の前に起こってくるあらゆる出来事はすべて、自分の心が呼び寄せたものである――少年のころにつかんだその法則を、このときにあらためて実感し、人生を貫く「真理」として心に深く刻みつけることとなったのです。

善なる動機をもてば、成功へと導かれる

以来、今日にいたるまで、私の人生はつねに「心」について探求を重ね、また自らに心のありようを問いつづける日々でした。

いかに生きるかという問いは、すなわちいかなる心をもつかと同義であり、心に何を描くかが、どんな人生を歩むかを決定します。

純粋で美しい心をもって生きる人には、それにふさわしい、豊かですばらしい人生が拓けてくるものです。

一方、自分だけがよければいいという狭量な思いや、人を蹴落としてでも自分だけが利を得ようとする邪な心をもつ人は、一時的に成功を収めることはあっても、やがては没落する人生を送ることになってしまいます。

いくら努力をして苦労を重ねても、いっこうに人生がよくならないと嘆く人がいたら、まずは自らの内側に目を向けて、正しい心をもっているかどうかを問い直さなければなりません。

なかでも人がもちうる、もっとも崇高で美しい心――それは、他者を思いやるやさしい心、ときに自らを犠牲にしても他のために尽くそうと願う心です。そんな心のありようを、仏教の言葉で「利他」といいます。

利他を動機として始めた行為は、そうでないものより成功する確率が高く、ときに予想をはるかに超えためざましい成果を生み出してくれます。

事業を興すときでも、新しい仕事に携わるときでも、私は、それが人のためになるか、他を利するものであるかをまず考えます。そして、たしかに利他に基づいた「善なる動機」から発していると確信できたことは、かならずやよい結果へと導くことができたのです。

KDDIの前身である第二電電を設立したときのこと。日本で電気通信事業が自由化されたとはいえ、それまで業界を独占していた強大なNTTに立ち向かうことは、危険かつ無謀なことでした。

事業を開始するまでのおよそ半年の間、毎晩眠るまでの時間に、私は繰り返し自らの心に厳しく問いました。通信事業への参入は、ほんとうに善なる心、正しく純粋な思いからなのか。自分が名声を得たいためではないか、そこにひとかけらの私心もないか――と。

そして、「自分はたしかに私心はない、同機は善である」という揺るぎない確信を得てから、参入を決めたのです。

当初は、同じく手をあげた他の二社に比べて、第二電電は圧倒的に不利だと言われていましたが、事業がスタートしてみると、つねに三社の中でトップを走りつづけることができました。

その後、KDD、IDDとの大同団結を果たし、KDDIと社名を変えて、いまでは日本を代表する通信事業者の一つとして大きく成長しています。

また、後年経営破綻した日本航空(JAL)を再建させるべく、請われて会長に就任したときも同様でした。

閉じの政府と企業再生支援機構からお話をいただいた当初、私は高齢であること、また航空業界には門外漢であることなどを理由に、何度もお断りしました。しかし再三の要請をいただくにつれて、その仕事にいかなる社会的意義、そして「善なる動機」があるかどうかを考えざるをえませんでした。

やがて、そこには三つの大切な意義があることが見えてきた。

一つは、日本経済の再生のためです。わが国を代表する航空会社の破綻は、日本経済にきわめて深刻な影響を与えることになる。一方、再生に成功すれば社会全体に大きな自信を与えることにつながります。

二つには、残された社員たちのため。再生がうまくいかず二次破綻ともなれば、三万二千人にものぼる社員が職を失ってしまうことになる。会社の再建は、すなわち彼らの生活を守ることでもあるわけです。

三つには、国民の利便性のため。日本航空がなくなれば、国内における大手航空会社は1社だけになり、公正な競争原理は働きにくくなる。運賃は高止まりし、サービスも低下して、利用者に不利益が及びかねない。

日本航空の再生は、たしかに社会的に大きな意義を持つ仕事である――「義を見てせざるは勇なきなり」という思いから、私は会長就任を受諾することに決めたのです。

これもまた、世間の大方の意見は、日本航空の再建はだれが手がけてもダメだろう、二次破綻は避けられないといった悲観的なものでした。しかし、そうした予想を見事にくつがえし、日本航空は改革に着手した1年目から急激な回復を遂げ、その後も過去最高益を次々に更新するまでになりました。

そして破綻から2年半あまりを経て、無事に株式再上場を果たすことができたのです。

燃える闘魂もまた、「善なる動機」から生まれる

もちろん、すべてが「やさしい思いやり」の心だけでうまく運ぶわけではありません。何事かをなそうとすれば、いかなる困難にも負けず、果敢に突き進む強い意志、何があっても成し遂げるというすさまじいまでの熱意が必要です。

そうした「燃える闘魂」もまた、善なる動機に基づいた目的の成就に必要なもので、やさしい利他の心に裏打ちされてこそ、揺るぎのない強固なものになるのです。

明治維新が成功したのは、勤王の志士たちに「世のため、人のため」という思いに基づいた「大義の御旗」があったからです。世の中を改めることなくしてはこの国の近代化はならず、日本は欧米列強の植民地にされてしまう。その危機感や気概――私心を捨てて、国を思う心が彼らをつき動かし、維新回転の技を成し遂げるエネルギーとなったのです。

先に述べた第二電電が、不利な条件の中からスタートしたにもかかわらず、大きく成長することができたのは、全ての従業員が「長距離電話料金を下げて、国民のために役立つ仕事をする」という目的のもと、一丸となって頑張ってくれたからです。

その過程では、幾度となく困難に見舞われ、大きな障壁にぶつかりましたが、そんなとき私はいつも、従業員に対してこういって励ましつづけました。

「いま私たちは百年に一度あるかないかという機会を手にしている。その幸運に感謝し、たった一度の人生を意義あるものにしよう。」

彼らもまた、その声にこたえて懸命に努力を重ねてくれたのです。

日本航空が再生を果たすプロセスでも、それは同じです。

従業員たちが自分の都合や欲得よりも会社にとって何が大切かを考え、その思いに基づいて自ら行動を起こしてくれた。企業再生の原動力となったのは、そうした従業員の「心」のありようであり、彼らが一貫して揺るぎなき熱意をもちつづけてくれたからなのです。

日本航空の会長に就任した際、私はすべての従業員に向けて、次のような言葉を紹介しました。

――新しき計画の成就は、ただ不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきにただ想え、気高く、強く、一筋に――

これはインドでヨガの修行をして悟りをひらき、日本でその思想と実践に基づく生き方を伝えた哲人・中村天風の言葉で、かつて成長を続けていた京セラにおいて掲げたスローガンでもあります。私はこの言葉をあらためて、日本航空の全社員に向けて紹介したのです。

このなかでも大切なのは、「気高く」という言葉です。美しく気高い心を根幹にもっているからこそ、ひたすらに強く揺るぎのない「思い」をもつこことができる。

何が何でも成し遂げるという強烈な思い、どんな苦境にも負けずに進もうという揺るぎない意志が、事を貫徹するためには必要です。そういう思いのもと、かかわる人たちが一丸となって最大限の努力をなしたときに、事は成就する。

その根幹となるのも、美しき利他の思いなのです。

何事をなそうとも、いかなる運命を歩もうとも、私たちが生きているかぎり、めざすべきものは、他によかれしと思い、他のためによきことをなす「善なる心」です。それは「真・善・美」という言葉でいい表すことのできる、純粋で美しい心と言ってもよいでしょう。

最も深い「心」は宇宙へと通じる

美しく純粋な利他の心に基づいてよきことをなそうとするとき、なぜ物事はよい方向へと導かれ、運命が好転していくのか――その理由を、私はこのように考えています。

人の心の奥には「魂」といわれているものがあり、そのさらに奥深く、核心ともいうべき部分には、「真我」というものがある。それはもっとも純粋で、もっとも美しい心の領域です。

禅の修行をしていると、その段階が深まるにつれ、えもいわれぬ精妙な意識の状態に到達するといいます。それは静かで純粋な至福の境地というもので、すばらしい喜びに満ちている。それこそが真我であろうと思われます。

ふだん私たちはその外側に、「知性」「感性」「本能」といった心を幾重にもまとってしまっていますが、だれもがその奥底に、この上なく純粋で美しい真我をもっている。利他の心、やさしく美しい思いとは、この真我の働きによるものです。

そしてその真我とは、万物を万物たらしめている「宇宙の心」とまったく同じものである、と私は考えています。

仏教では森羅万象に仏が宿っていると説きます。古来あらゆる宗教が語ってきたように、この世のあらゆるものは、宇宙の心というべき「たった一つの存在」が、それぞれに形を変えて顕現したものだといえる。

つまり、人の心のもっとも深いところにある「真我」にまで到達すると、万物の根源ともいえる宇宙の心と同じところに行き着く。

したがって、そこから発した「利他の心」は現実を変える力を有し、おのずとラッキーな出来事を呼び込み、成功へと導かれるのです。

宇宙の心とは、宇宙を形づくってきた「大いなる意志」といいかえてもよいでしょう。

宇宙には、すべてのものを幸せに導き、とどまることなく成長発展させようとする意志が働いています。宇宙の原初から生成発展の歴史をひもとけば、そのことがよくわかります。

そもそもひと握りの素粒子しかなかった宇宙は、ビッグバンを契機に原子をつくり、原子はやがて結合して分子を生み出しました。さらに、分子どうしが結びついた高分子にDNAがトラップされて生物ができ、高等生物にまで進化を重ねてきました。

素粒子の塊のままでもよかったはずですし、生物が誕生しても原子生物のままで何ら問題はなかったはずです。しかし、宇宙はそれをよしとしません。

あらゆるものがとどまることなく、あまねくよい方向に向かって進化し、発展を遂げていく。ある宗教家は「宇宙には愛が遍在している」といいましたが、そうした「気」が宇宙には充満しているのではないでしょうか。

私が心に抱く思いもまた、「気」だといってもよい。したがって、すべてをよい方向へと導こうとするよき思い、他を幸せにしようとする美しい心をもつとき、それは「宇宙の心」と同調・共鳴し、おのずと物事をよい方向へと導くのです。

人生の目的は心を磨き、他に尽くすこと

これまで述べてきたことは、実に深遠な人生の真理というべきものですが、このことがわかると、私たちがなぜこの世に生を受け、人生を歩んでいくのか、その意味もまた明らかになってきます。

人生の目的とは、まず一つに心を高めること。いいかえれば魂を磨くことにほかなりません。

ともすると私たちは、富を手に入れたり、地位や名誉を求めたりすることに執着し、日々自らの欲得を満たすために奔走してしまいがちです。しかし、そうしたことは人生のゴールでもなければ目標でもありません。

生涯の体験を通して、生まれたときよりもいくばくかでも魂が美しくなったか、わずかなりとも人間性が高まったか。そのことのほうが、はるかに大切なのです。

そのためには、日々の仕事に真摯に取り組み、懸命に努力を重ねること。それによって心はおのずと研磨され、人格は高められて、より立派な魂へと成長を遂げる。まずはそのことに私たちが生きる意味があります。

そしてもう一つ、人生の目的をあげるとすれば、人のため、世の中のために尽くすこと。すなわち「利他の心」で生きることです。

自らの欲得を抑え、やさしい思いやりの心をもって、他のために尽くす。それもまた、私たちが命を与えられた大切な意味だといえるでしょう。

心を高めること、そして「利他の心」で生きること――この二つは一体かつ不可分で、他のために尽くすことによってこそ心は研磨され、また美しい心をもつからこそ、世のため人のために働くことができるのです。

自分の思いや振る舞い、行いを省みることによって、利己とエゴに満ちた悪しき我をできるだけ抑え、利他と思いやりにあふれたよき我をできるかぎり発現させていく。

そのことが魂を磨き、心を高めることにつながります。そしてそれによって人格が陶冶され、人生はさらにすばらしく、豊かなものになっていくのです。

どんな人でも、この世に生を受けたかぎりは幸せになる権利があります。それどころか、幸せになることが私たちの生きる義務であろうとすら思っています。

美しい利他の心をもって世のため、人のために力を注ぐとき、私たちの人間性は磨かれ、幸福や充実がもたらされ、その人生もより深い意義と価値あるものになっていくのです。

すべては「心」に始まり、「心」に終わる――それこそが、私が歩んできた八十余年の人生で体得してきた至上の知恵であり、よりよく生きるための究極の極意でもあります。

本書では「心」について、いま私が思うところを忌憚なく語ってみたい。そして、次世代を担う人たちへの私の伝言にしたいとも思います。

みなさんが希望をもって明日を生きるための糧となり、すばらしい人生を送る一助となれば、これに勝る幸せはありません。

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稲盛和夫「心。――人生を意のままにする力」プロローグより